車椅子に乗っている息子と出掛けて経験したこと、感じたこと、他人のやさしさに触れて思ったことなど。
地下鉄で
地下鉄に乗っていた時のこと。息子は車椅子スペースにいて、その後ろに私が立っていた。すると向かいの優先席に座っていた私より年配の人が「どうぞ」と席を譲ってくれた。
私は正直戸惑いました。
息子は車椅子に乗っているので、席を譲られても座席に座ることは出来ないし、私に席を譲ったとしてもどう見ても私の方が若い。「大丈夫ですよ~」と一度お断りしたが声をかけてくれた方が席を立たれてしまったので申し訳なく私は座った。たぶんその人は【車椅子→障害者→席を譲らなきゃ】と反射的に思ったのかもしれない。でも結局譲ってくれた席に座るのは健常者の私。もしかしたら私が疲れてるように見えていたのかもしれないと思い直した。
譲ってくれた人も声をかけるのに勇気がいったと思う。声をかけてくれる優しい人がいるということにありがたく思った。
自動ドアで
車椅子の息子と出掛けると自動ドアの前で立ち止まってドアを開けて待っててくれる人がいる。「自動ドアだから大丈夫なんだけどな~」と心のなかでつい思ってしまう。そしてある意味無駄なことをしてくれるそんな人が可愛く思えてきてほっこりする。その人が自分の貴重な時間を削って私たちに気遣いをしてくれてると思うとやっぱりありがたい。
エレベーターで
同乗した人がエレベーターの「開」ボタンを押してくれて「どうぞ」と言われることは多々ある。エレベーターにしょっちゅう乗ってるから知ってるけれど、エレベーターのドアはそんなに早く閉まらない。でも安全面を考えるとやっぱりありがたい。
見た目がチャラいお兄さんがエレベーターのドアを開けてどうぞと言ってくれた時には人は見かけによらないなーと思ったり。
その一方でベビーカー押したお母さんに優しくされると、いやいやあなたの方が慣れない育児で大変でしょうに、と思ってしまう。でも相手からみたら障害児連れてる私の方がやっぱり大変そうに見えるんだろうね。
雨の日に
雨の日にお店の出入り口で傘を畳んだり息子の体拭いたりしてた時に「何かお手伝いしますか」と声をかけてくれた人がいた。急に声をかけられて少しびっくりしたこともあって思わず「大丈夫です」と答えてしまった。自分が未熟者であることもあり「お気遣いありがとうございます」の一言が言えなかった。しかもどこかで母親の自分がしっかりしなきゃと強がっていて人の優しさを素直に受け取れなかった自分もいた。優しくされたときの咄嗟の対応って難しいと感じた。
存在意義
息子は車椅子に乗っている。誰が見ても障害者だとわかる。だから息子に優しくすると障害者に優しくしたという実感が沸きやすいと思う。優しくしてくれた人がその日一日を温かい気持ちで過ごせたらいいなといつも思う。損得勘定が無い人がほとんどだとは思うが、どういう形であれ、例えば「他人に優しく出来る自分が好き」でも、「他人に優しくしてる俺ってえらいでしょ」でも、誰かの心を満たすための役に立っているのであれば息子の社会的存在意義もあるかもしれない。
やさしさを受け取るって難しい
人見知りで内向的な私自身の問題もあると思う。声をかけられるのは車椅子に乗っている息子ではなく、介助者の私の方だ。声をかけられてとっさに上手く返せない。とにかく「すみません」と謝るのは止めて「ありがとうございます」と感謝を言うように気をつけている。
厚意で声をかけてくれる人はほんとにありがたい。息子といると案外優しい他人がたくさんいて世の中捨てたもんじゃないと思える。障害者に優しい世の中になって欲しいと願う一方でこちら側は「優しくされるのが当たり前」になってはいけないと思っている。
最後に
私自身は通りがかりの人に声をかける勇気のない人間です。だから声をかけてくる人ってほんとにすごいなって思う。あっ、でもすごく親しげに声をかけてきた人が宗教の勧誘で、車椅子乗ってる息子を見て「入会したら歩けるようになる」って言われたこともありました(笑)。私は科学的根拠がないことは信用しません。
優しくしてくれた人に直接優しさは返せないけれど、別の誰かに優しくすることで巡り巡ってその人に届けばいい。
最後まで読んでいただきありがとうございました。